NPO法人 紫波みらい研究所
 
森林資源循環フォーラム
〈第2部〉発表「紫波の森が学校になった」

 
 佐川旭氏(上平沢小学校工事監理)

 高橋米勝氏(紫波・森と家づくりの会会長)

 新里盛氏(上平沢小学校校舎建築記念事業協賛会会長)

  

「作った人の思いを多くの人の心に留めたい」

佐川旭氏(上平沢小学校工事監理)

 学校は第2のリビング
 ここに使った木材はおよそ1000立方メートルですから、40坪の家を建てると仮定すれば、25棟の家を建てるくらいの木材を使っています。公共の建物は単年度事業ですから、3月に完成しなければならない。大工さんは最高65名ぐらい入っておりました。そうすると大工さんたちもいろんな親方に受けた教育があるし、みんな手作業ですからそれぞれに癖がある。統括をするのに現場監督の方は非常に苦労されたと思います。
 約4年ぐらい紫波町に通いまして、田んぼのあぜ道の寸法を測ったり、山なりの傾斜を観たり、紫波の風景を集めてそれを図面の寸法に落としてカタチにしていき、無駄なところはそぎ落としていきました。その過程で、「学校ってなんだろう?」、「教育ってなんだろう?」と考えていきます。そこで学校は、第二のリビングじゃないかなと。この100坪の多目的スペースは家庭の延長としてのリビング、ダイニングをイメージして、畳で座れる場所を作ったりしました。この空間に優しい感じがするのであれば、それは紫波スケールの風景が入っているからかも知れません。
 紫波町には杉がおよそ25パーセント、赤松が25パーセント、唐松が4パーセント、広葉樹が48パーセントあって、木の種類のバランスがいいです。そのバランスでこの建物の構成をしていくと自然とマッチするだろうとシンプルに考え、赤松、唐松、杉、クリを使用しました。

 縦割りから横軸へ
 今、言葉と建築というものは分かれてしまいました。例えば、「さくら」という言葉がありますね。四月に咲く。「さ」というのは、英語でいう「ザ」とか「ア」といった冠詞ですが、「くら」というのは、納戸なんですね。四月の桜の時は、秋の取り入れのときの蔵を想像しなさいよ。四月に桜が咲いたら、その当時の人は、もう蔵に貯蔵することを考えていたわけなんですね。
 家に「すむ」というのは、「にんべん」に「あるじ」と書いて住むと、「さんずいへん」に「のぼる」と書いて澄むの二つがありました。身をきれいにして靴を脱いで、玄関に入る。玄関というのは、玄妙なる関門ということで、玄関は仏教用語です。要は、「住む」という言葉は単に「すまう」という意味だけではなく、そのきれいな方の「澄み」という意味もあり、この「澄む」が「住む」の語源でもあるのです。他にも、例えば囲炉裏とか、上座、下座、縁側などの言葉は、躾、家庭生活と一体でしたが、森が忘れられ、木が忘れられていったことによって、そういうことがだんだん曖昧になってしまったんですね。
 森と人とのありかたも同じように画一的になって関係性がなくなった。行政は縦わりだとよく言われますが、いつのまにか我々市民とか町民が縦わりに慣らされてしまった。そういった意味で今回の工事は、川下から川上まで、工務店、設計事務所、製材所、大工さんまで非常に縦軸だったものを横軸することができたと思います。

 自然が教えてくれる本当の心地よさ

 花の色の彩度は3.5から6.5なんです。あざやか度ですね。この自然の彩度のなかで色を使うと人間というのは落ち着くんですね。ここの暖房もそうですけれども、40度だと木は耐えられますが、60度まであがると参ってしまう。それは気候の中で起こりうる温度は最高で40度位までで、その条件であれば木も耐えられるのです。だから40度でお湯を流しておけば床暖房として大丈夫なわけです。これらは、全て自然が教えてくれます。
 また、人間は、なにを見れば落ち着くかというと、月です。明かりの色温度はケルビンという単位で表します。月の光は、4200ケルビンで、すまいの安らぎの色温度は3300ケルビンといわれています。あとは、日本の和室が落ち着くというのは、室内の素材の反射率が50パーセント以下で、落ち着かない状態というのは70から80パーセントの反射率なんです。ステンレスとかアルミとかガラスというのは反射率が高いから落ちつかない。お店はそういう内装を使って回転率を上げることもあるわけです。こんなふうに自然から教えられることは多くあります。
 紫波の風景をクラスの教室の(プレート)にしました。1年生は「雪の結晶」、2年生は「若芽」で3月、4月、3年生は「郷土玩具の牛」で5月6月を表しています。4年生は「せみ」7月、8月、5年生は、「ぶどうの房」9月、10月を表しています。6年生は、秋の実りである「稲のロール」で、11月12月ごろによく紫波で見られる風景です。全体的には紫波の一年を物語にしてみました。

 同じ思いを胸に取組む力強さ
 皆さんが座っている床板の裏側には、一枚一枚ここに携わった大工さんの名前が全部書かれております。これは今の子供たちが五十、六十になって、もし建てかえることになって剥がしたとき、「あれ、うちのおじいちゃんじゃないか」「いや、うちのお父さんじゃないか」とかになればいいなと。
 子供たちがこの学校で、森から、勇気、愛、生きる力強さとかが心の中へ入っていって、ここから素晴らしい人が出て時の鐘をつげる人になって欲しいとの思いを込めました。我々の出来ることは、一人一人の心に火を灯し、共有していくものを多く作り、つながりを持ちながら、住みやすい街を作ることではないでしょうか。
 今回の工事は、完成が3月17日と決まっている中で、12月までは工事の全体の50パーセントしか出来ませんでした。1月から工事のペースは急速に上がって、3月の初めぐらいにはほぼ90から95パーセントぐらいは出来ました。それは現場の皆さんの協力はもちろんですが、一人一人、心の中に、同じ町に住むものの思いをもって取り組んだからでしょう。現場は全部で百人以上の職人さんたちが入り、みんなで力を合わせることで地域の力強さができ、そして心の中に灯がともってやる匠の技は、素晴らしいなとつくづく感じました。少しでも、作った人の思いが、皆さんの心に止まれば、ありがたいと思っております。

  

「本物の木の良さを伝えていきたい」

高橋米勝氏(紫波・森と家づくりの会会長)

 初めての協力体制
 今回の小学校の建築にあたり、紫波町より同町の政策である森林資源循環型構想の木材部門に町内の製材業者が対応してみては、というお話があり、すぐに業者間で協議しました。いろいろと検討した結果、この事業には未来がある、意義があると判断いたしまして、全員で参加することに決定しました。バブル崩壊後、全国的な経済不況の中で、こうした時期に紫波町が総合事業をかかえ、産業振興をはかる思いと、私ども製材業者がかかえております思いとがぴたりと合ったわけです。
 その時点では、まだ、木材調書ができておらず、見込み生産で木材伐採をはじめました。完成引渡し期日が3月中旬と決まっており、早く始めないと納期に間に合わなくなるので早くしたというのが現状でございます。
 その後、製材業者の将来のために組織化をしようということで、平成14年11月に、NPO法人紫波みらい研究所内に製材業者5社、森林組合1社、計6社で立ち上げたのが「紫波・森と家づくりの会」です。今までですと、製材所が一つの目標に向かって協力したことはありませんでした。まったくの新しい試みであります。
 新校舎には、町内産の木材1000立方メートルの使用が見込まれており、原木が2000立方メートル以上必要なことが分かりました。はたして、短期間に木材を調達できるか大変心配しましたが、数多くの山主さんに相談をしたところ、皆さん快く賛同してくださいました。
 特にもアカマツの梁材を提供してくださいましたみなさまには本当に感謝を申し上げます。その中のお一人は、「公共工事で小学校に使われ、将来に残るのであれば、喜んで提供します。これで孫にも自慢できるな」と言われ、本当に頭の下がる思いでした。少しの予算でご協力をいただいた18名の山主さんに心から感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。また、山林の伐採から木材の搬出、そして運搬、さらに製材まで、それぞれの分野でご協力をくださいましたみなさまにも深く感謝を申し上げます。


 残された数々の課題
 以上のような仕組みでスタートした事業ですが、問題点もいろいろありました。まず、設計見積もりが早く出なかったので、木材を早めに見込み生産した結果、木材の長さの調整が出来ず、最後に非常に無駄が多くなったということです。それから、工事発注も一般工事と違い時期にずれがあって、今回の建築の目玉である紫波町産の南部アカマツは、伐採時期が合いませんでした。アカマツは一般には冬期間に木を切って、春に乾燥させ、製材をするのが普通ですが、今回は8月の発注で9月の伐採なので大変困りました。特に今、岩手では松くい虫対策で5月〜9月はアカマツの伐採や移動も禁止されております。
 また、建物の大きさに比べまして、工期が130日間しかなかったので、後半に余裕がなくなりました。最初は製品の納入もスムーズに行っておりましたが、冬期間に入り乾燥が間に合わなくなり、含水率が高くなり、急遽、外部に乾燥を委託したために納品が遅れ、大工さんに迷惑をかけてしまいました。以上のような問題もありまして、今後につなげるために、次の問題点を挙げて、解決に向けて、進もうと思っております。
 一つ目は、行政の制度などの点で難しいのも事実ですが、工事発注の時期について行政と話し合いをしていきたいと思います。二つ目は、乾燥施設の問題です。今、製材所で共同の施設を設置する検討に入って話し合い中です。三つ目は、アカマツの伐採の時期なんですが早めに発注があれば何とか対応できると考えております。設計の見積もりが早く出ますと、計画が行いやすいということだと思います。以上のような問題を、即急に解決し、無理と無駄がなくなれば、この分がいわゆる、収入として跳ね返ってくるわけでございます。

 地元の木アカマツの復活
 皆さん、この学校の建物を見てください、素晴らしい学校が建ちました。上平沢地区の学区民の人たちの先人の思いが見事に花開き、学校林が、そして、紫波の森が学校になりました。木造建築の素晴らしさ、温かさ、柔らかさ、そしてこの環境、全て将来の子供たちに残せる、また伝えるとの思いが、学校という校舎になりました。
 今回の建物は、土台には栗材。柱には杉材。桁には唐松材。それから、大梁と床板には南部アカマツと四種類の木材しか使われていません。すべて紫波町産材の無垢材で、これが本物です。真物ともいいます。建材や集成材は一本も使われておりません。床板の松材と建材のフロア材と同じ条件で並べ、その上に立ってみると、どなたもアカマツの方が温かいと判断をしてくれます。本物の木材の素材の良さを皆様で味わっていただきたいと思います。コンクリートにはない、本当にいい感触が伝わってくると思います。裸足で歩いてみますと非常によく分かります。
 今回の校舎のメインには南部アカマツの大梁23本が使われていますが、現在の一般住宅にはほとんど使われなくなりました。その原因として、価格の問題、捩じれの問題、あるいは、青かびの問題、建築構造の問題が原因と思われますが、これは、伐採時期とか製材技術の向上で解決できると私は考えております。今回の学校がそれをまさしく示しています。南部アカマツは現在、関東、関西方面に非常に高い値段で取引され、高級品として扱われています。一般住宅には使えないほど高価なものです。岩手県産ブランドで、町内の住宅に使うのが、地産地消につながり、昔の南部曲家の梁材のように、百年も百五十年も利用できて、年代とともに輝きを増す、アカマツの素晴らしさを、今後に伝えるのが私たちに託された使命だと思っています。
 今回の経験を生かして一般住宅にも普及させ、いずれ関東方面にも目を向けていきたいと思います。紫波町では、今年から一般住宅を新築する場合、1戸に10立法メートルの町産材を使用しますと、町より補助金がでます。さらに、固定資産税の減免もあります。それから、岩手県の助成金も併せますと、45坪ぐらいの一戸建てで、70万から80万円の減額になる予定です。これを、広く町民の皆様にご理解をいただいて、利用してほしいと思います。
 また、今後、紫波みらい研究所では、森林循環の一環といたしまして、子供達との関わりを持ち、植林や、山歩き、きのこ採りなど山との関わりを少しでも多く持っていきたいと考えています。
 最後に、製材業界は外材に押され、仕事が瀬戸際に立たされており、この時期にこのような大事業に6つの製材所が心を一つにして参加できたこと、みなさまの協力で完成までこぎつけたことは今後に大きな財産として残るものであり、本当に感激に堪えません。
 今、地球規模で騒がれている地球温暖化の問題や、日本では山林の荒廃とか、雇用の問題などありますが、これからの将来につながる発想で森林資源循環型構想を打ち出した紫波町のすばらしい原動力と将来性を信じ、紫波町のますますの発展を願い、また、本日、学校に見学にみえられたみなさまに心から感謝を申し上げ、御礼とします。
 

  

「心の温かみのある子どもたちが育ってくれることを願っています」

新里盛氏(上平沢小学校校舎建築記念事業協賛会会長)

 学区民林の誕生のきっかけは修学旅行
 私は、ここの学校の卒業生でございます。昭和十二年に一年生でございました。七月七日に日中戦争が起こった年でございます。その年に私たちの先輩の方々約百三十人ほどに伊勢神宮への修学旅行が計画されました。当時の旅行費用は、だいだい一人当たり九円六十銭。当時の米の値段は十二円ほどでございました。当時の志和村(現在の紫波町志和地区 。上平沢も志和地区に入る)の耕地面積は、水田が約八百ヘクタール。そして、平年作の反当収穫量は、四俵から五俵、つまり240から300sだったようです。そして耕作面積は、1戸平均1haぐらいで、その半分以上が小作人であったと聞いております。
 そこで、奨学会の積立金の方から、九円六十銭のうち、三円を助成をしましたが、それでも約三分の一は旅行に行けませんでした。中には親御さんで大家さんに行って、「今度修学旅行に、おらほの息子やりたいがどうでやんすべ」と、こう打診方々お願いをしたところが、大家さんが、「うーん、旅行ていいごどなんだ。ほんだどもなし、あそこで倉あるずども旅行さやらねずじぇ」こういわれた途端にお父さんは目の前が真っ暗になった、そのような、世の中の事情を抱えての修学旅行だったようです。
 そこで学校では、今後のことを考えると、教育の機会均等(当時は使っていない言葉ですが)を実現していかなければ、子供たちの勉強を保障することは出来ない。そこで、学校長は部落内を回って、有識者といわれる指導者の方々や村長さんなどと、ほとんど毎日のように懇談をしたり、相談をした。が、しかし、当時の志和村は、亡国病といわれた結核対策を強化しなければならなかった。一度、肺病に侵されますと、かまどがえし(一家破産)になった、と言われるほど恐ろしい病気だったといわれています。また、当時は農業用水の確保が、至上使命でした。親は、この二つの大きな課題のために、子供たちの生活あるいは学習を保障することは非常に難しい。そこで考えついたのが、学校の山を作ろうという全職員の結論であったと聞いております。

 めざしたのは木とともに育つ植林教育
 大正十一年の後半から、全職員で郷土史の調査研究に取組むなかで、先生方は、「教育とは、歴史の教訓を大切にして、教育を進められなければならない」ということに着目したそうです。そして、昭和十三年の七月の村議会で学校の山を営林署から借りて植林をしたいとお願いした。学校林と呼ぶところが多いようですが、上平沢の村議会にかけた議案書によりますと、学校実習林という名称になっております。基本とする考えは、植林教育で、山に木を植えて、その木を植えてお金を儲けるのが目的ではない。お金も大事ですが、子供たちは小さいときから木を育てながら、自分も育てられていく、そういう教育を基本とした学校実習林であったと聞いております。もうすでに現在八十にならんとする人たちが当時の六年生、高等科で植林を始め、六十数年経って、この校舎の建築用材として活用されることになりました。
 去年の正月、役場から学校の山の木を校舎建設の材料に寄付協力をしていただけないか、とありました。学校の現在の山は、山の管理運営規約で校舎建築以外の教育の設備、施設等に使うことは許されますが、校舎を建てることは出来ません。そこで、学区民の全員集会を開きまして、皆さんに事情を訴え、皆さんのご意見を聞きました。一番私の心に響いたのは「義務教育の学校を建てるのに、学区民が財産を寄付しなければ、建てられないのはおかしい」という意見でした。有線(※)、電話で何度そのようお話しがあったか分かりません。けれども、「初期の目的がなんであれ、地域の発展、子供たちの教育の機会均等を保障するためにこそ、学校の山が生かされるべきである」との私の考えもお話して、多くの方々の懸命なご論議をいただきながら、ついには「学校の山を校舎建築に協力しましょう」と全員の賛同を得ることができました。
 この校舎に使われた木材の量のうち、約十一分の一は学校の山から伐り出した用材です。私たちは寄付するにあたり一つだけ条件を申しあげました。それは、どこに使ったか分かるように活用して欲しいということでした。結果、使用場所は、音楽室に使っていただきました。役場、教育委員会をはじめ関係者の皆様に、この場より厚く御礼を申し上げます。誠にありがとうございました。

※有線・・・紫波町では有線放送のケーブルが各戸を網羅しており、設備を入れれば一般住宅でもケーブルを利用した有線電話を利用できます

 地域の人々の思いがこもった校舎
 考えてみますと、学校の山にも幾多の危機がおとずれております。昭和二十九年、町村合併を目前として、学校の山はどのように扱っていけばいいのかという、大きな課題がありました。そのときには、論が二つに分かれました。「今の日本の憲法では義務教育を無償とするのだから、学区民が財産を持って学校の補強的な役割はやるべきではない」との強い正論のようなご意見がありました。しかし、一方で「ローマは一日にしてなりません、だから、持ってもいい」と。結果的には、学区民が財産を所有していたからこそ学区民林として、今回、公共施設の建築資材として提供することができました。それを永く守ってくださった、先輩各位、当時の管理関係者の方々の血のにじむような努力には、ただただ頭が下がるような思いでいっぱいです。このように造っていただいた校舎です。ここから心の温かみのある子供たちが育ってくれるであろうことを念じながら、今日の発表とさせていただきたいと思います。どうも皆様ありがとうございました。

  
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